3.11の思い出 [事件]

地震が起きた朝、私は何をしていてのか覚えていない。
多分、朝はいつも通り寝ぼけた頭でパンを焼いて食べたんだろうけど、それからお昼までは何をしていたんだろう。
ボケッとしてたのかな。お父さんは家にいたから部屋で写真を整理したりブログを書いてたのかな。

でも私は地震が起きた時、私はお母さんと厨房にいた。
最初は、『地震だ!』と思って身構えたけど、お母さんはなぜかすぐに勝手口の扉に走って行った。
20年以上も前の建物で、厨房についている重い鉄の扉は、親子ドアの下のストッパーがバカになってる。
お母さんはそこへすっ飛んでって、重い扉が閉まらないように一生懸命押さえてた。

長い揺れが続き、そのうちうちの自慢の有田焼の食器を詰め込んだ、天吊りの食器棚が天井から引っこ抜けそうな勢いで盛大にガシャガシャと音を立てて揺れ始め、それでようやく直美が二階から降りてきた。
幅1200㎜奥行900㎜のステンレス製の食器棚は天井から4つも下がってて、私が手で押さえたってどうにもなるもんじゃないし、危ないことだって分かってるけど、本能なのかなんなのか、自然とその食器棚が揺れて落ちるのを抑えようとしてた。
私も直美も。
引いては返す波みたいに強い揺れがぶり返すので、私はたままらなくなって、店の一番奥の事務所のテレビの前から一向に動こうとしないお父さんに向かって「いいから事務所から出て!」と怒鳴ったが、本人が言うことを聞く気配は全くなかった。事務所なんて天井の四方からテレビやら、工具やら、有田焼のでかい器やらが落ちてきてもおかしくないところだったのに。
(結局事務所の中の物は何も微動だにしなかったのだが)
言っても出てこない父親に痺れを切らして私がもう一度事務所に父親を呼びに行こうとすると、私の背中からお母さんが「行かないで!」と叫んだのを今でもよく覚えている。お母さんと一緒に重い鉄の扉を一緒に支えて立っていた時に私の手を握り返してくる力の強さも。お母さんがどれくらいこの地震を怖いと思っているのかもその時分かった。
実際、今となっては、あの地震にうちの木造築50年みたいな店がよくもったと思う。それくらい揺れた。世界が揺れているように見えた。家の中のありとあらゆる物が揺れ、開け広げた勝手口から見える外の世界も揺れている。電線が揺れ、電信柱が揺れ、踏切の警報機が揺れ、駅の時計台が揺れ、大きな桜の木が枝を揺らし、駅舎の屋根がガタガタ言って、停まっている電車も揺れている。そこにいる人々だけが揺れから身を守ろうと必死にとどまっていた。
でも幸い、結局うちの家の中の物は何も落ちず、何も割れなかった。
よそでの被害を目の当たりにするにつけ、誰かが知らないところで守っててくれたのかもしれないと時々思う。
もうこの年の暮れには出て行かなきゃいけないこの土地に、今はまだなにがなんでも残ろうとするみたいに。

ようやく強い揺れが治まって、みんなで固唾を飲んで地震速報を待った。
今思えば、地震の時家族がみんな一緒にいられたというのは本当にラッキーだった。
兄はマンモス病院に入院中で家より全然安心だ。
自分の住んでる町の震度が出るまですごく時間がかかったような気がする。
ようやく出てきた情報では震度4だった。
そんなバカな。
そう思った。
震度4の地震なら子供のころから今までだって何度も経験してる。
でも、天吊りの食器棚が外れる勢いで揺れたりなんかしなかった。
そして後日、この辺の震度は5弱であったと修正された。
でも結局、震度がいくつだったかなんてことが問題なんじゃない。
それでどうなったかということだと、それをこの数時間後から数か月にわたってじわじわと味合わされることになる。

目の前の駅からアナウンスが漏れ聞こえてくる。何を言っているのかはっきりは分からないけど大体の予想はつくし、アナウンスの声自体が何か不安げに響く。
鶴巻温泉ではまたまた電車が停車中に地震が起きたから事故が起きるとか、大事には至らなかったけれど、遮断器は降りたまま。警報は鳴り続け、閉じたきりの踏切に車がだんだんと列をなしていく。
地元の人ならどう行けば踏切を迂回できるか知っているけれど、バスがそうするわけにもいかない。
動かなくなった電車から追い出されて、途方に暮れた顔をする人たちが店の前を通り過ぎていく。どうやって家まで帰ろうか。そんな顔。ここがいったいどこだかも分からない、携帯を片手にした人からそんな会話も聞こえてくる。
駅を出たとこで不安げにたたずむ親子をまた余震が襲う。周りにつかまるものがなくて、小田急の保線の柵につかまるおばあさんたち、母親は立っているだけで精いっぱいみたいな幼い子供を自分の膝に抱き寄せるしかできない。駅の軒の支柱でさえブルブルと揺れている。
駅はしばらくして、改札だけは開放して、なんとか踏切をまたいだ人の行き来だけは確保したみたいだった。
やがて踏切も開いたけど、それまでがすごく長くかかったような気がする。鶴巻温泉駅はいやしくも急行停車駅ではあるけれど、つまり業務中の電車は快速急行であろうとロマンスカー以外はすべて停車するけれど、駅員の常駐はない。厳密にいうと、駅員が一人も駅にいない時間帯がある。
こういうの、有事の際にはどうなってるんだろう。電車が走っていないんだから、次の電車に飛び乗って駆けつけるわけにもいかない。道路事情だって、他の交通機関がマヒしているせいで「駆けつける」なんてのは無理だろう。目の前で止まっている神奈中バスを見れば分かる。終点は目の前だが踏切を越えられない。バスの高さを通す迂回ルートがない。こんな緊急時に改札に設置されているインターホン越しのやり取りだけでらちが明くんだろうか。
駅に停車していた電車の方はそれから17:00になっても以上駅のホームに停まったままだった様な気がする。
あの電車に乗っていた人たちはあのあとどうやって家まで、目的地までたどり着いたんだろう。

父は強い地震が治まると、止める間もなく、ビデオとカメラを持って車に乗って鉄砲玉のように出かけていってしまった。地震の影響を確認しに、思いつく限りの場所を見回りに行った事は、後で何とか携帯がつながった時に分かったが、しつこく余震が繰り返す中、家に電話の一本も寄越さず、出てった切りの父が大丈夫かと心配だったのを覚えてる。
私も私で、揺れが収まると、これまたはじき出されるように目の前のドラッグストアへ急いで行って、2リットル入りの水のペットボトルを8本とお徳用のインスタントラーメンを二袋、そして家の救急箱に足りなかったものを買いあさった。町の店にものが十分にあるのを見かけたのはその時までだった。

携帯はあっという間に使えなくなった。出たきりの父親にも繋がらないし、入院中の兄にもつながらなかった。ので、病院には家電から電話して病棟の人に無事かどうかを確かめたくらいだ。電話には兄を直接出してはくれなかった。他の入院患者の家族だって心配だろうに。病院の非常時対応ってどうなってんだろうと心配に思った。ホテルに泊まる時だって、「非常口はあっちです」くらいのことは言う。
電話はその後、何とか連絡を取ろうと悪戦苦闘した末に、携帯どうしでは繋がらなくてでも、固定電話やIP電話からなら携帯に繋がることが判明した。
それでも父が家に戻ったのはとっぷり日も暮れた18:00を過ぎ頃だったと思う。
父は3時間以上かけて町の被害状況を確認して回り、ビデオや写真に記録してわけだけど、動揺していたせいなのか、それまでにだって何度も使ったことのあるビデオなのに何一つ録画出来ていなかった。
父は自分の見たものが何一つ残せていないことに怒りをぶちまけていたけれど、帰ってきた父が「ひどい、ひどい」と繰り返し言う町の現状を私は信じた。

鶴巻はもともとちょっと雨が降れば水の出やすい地域ではあるけれど、地震では地下の水道管が破裂して地面から水が吹き出し、辺りにはガスの臭いさえ漂い、都市ガスが元から止められて、一定地域で都市ガスの使用が出来なくなった。ごはんを作ることも、お風呂に入ることもできない。父はそうした人たちが、復旧のめどが立つまで無料で弘法の里湯を利用できるように市や関係各所と掛け合い、またそうした利用が出来ることを該当する地域の人たちに伝えた。また逆に、夜には小田急が不通になったため、家に帰る手段がなくなって弘法の里湯に取り残されてしまった観光客の人たちのために、うちの店から簡単ではあるけれど夕食を提供した。もちろん無償で。里湯の人には、連絡には固定電話が使えることを説明したつもりだった、がどうも理解できなかったのか、固定電話がないんだか、あっても里湯からでは繋がらない、毎回わざわざ店まで出向いて連絡取に来てくれていた。

夜遅くになっても携帯の通話もメールも復帰しなかったので、パソコンから兄の携帯にメールをした。病棟の人から大丈夫だとは聞いていたけれど、直接本人と連絡が取れて安心した。地震の影響は病院の方が小さかったらしく、兄も心配していたよりははるかに落ち着いていたし、部屋のみんなと騒いで元気そうだったんで安心した。ただ、テレビも見せてもらえないので、入ってくる情報が少なくて、状況がよくわからないと外の様子に興味津々な様子だった。
夜になるとみんな自分の病室ではなく、体育館のようなところに一か所に集められ早々に消灯されてしまい、私が持たせたFMチューナー付きのウォークマンが唯一の情報源だったと後から聞いた。
実は兄は地震の翌日、一時帰宅の予定になっていたが、交通機関が機能していないので、無事に帰って来れるかどうか心配なので、今回の一時帰宅は中止してほしいと兄から病院側へ交渉を頼んだが、何度説明しても私の心配していることが病院の人には伝わらないみたいで、しまいにはもともと患者には帰宅させる予定で病院のスタッフにも休みを出してしまっているから、残られても昼食などの面倒が見れないと兄から聞かされた。そんな訳なんで、家に帰らなくてもいいが、昼間は外で過ごしてもらうことになるという説明だった。余震で揺れる見ず知らずの街中に患者を放り出すのか?私は理解に苦しんだし、それがまかりなりにも津波警報の出た地域の病院の非常時としての対応にかなっているとはとても思えなかったが、兄との要領の悪いやり取りにも疲れてしまっていたので、どうなるのか全く分からんが、結局予定通り帰ってきてもらうことで折れた。ただし、小田急線は早々に鶴巻温泉駅に停まるのは午前中の早い時間だけと臨時ダイヤを発表してくれていたので、翌日朝食を食べたらすぐに病院を出られるようには話を付けてもらった。
兄は翌日お昼ごろには家に戻ってきた。それにどれだけほっとしたことか。兄の姿を見てあんなによかったと思ったことはない。みんな無事で本当によかった。家に帰るまで夜通し6時間以上歩いた人もいる。会社の24階で夜明かしをした人もいる。こんな時に家族が全員一緒だった私たちはラッキーだった。

私は、福島や宮城や仙台があんなにひどいことになっているなどと私はいつ知っただろう。
津波の来る瞬間を私は見ていたんだろうか。
私が被災地の様子で記憶にあるのは、夜になって津波が襲った町に火が付いていたことだけだ。
炎が海の上を滑っている。
これは地獄かと思った。
震度7の地震が襲い、町を再起不能なまでに破壊し、その上そこに残された瓦礫を津波ですべてさらって行くだけでは飽き足らず、そこへさらに火を放って灰にしようって言うのか。
私は阪神淡路の大震災の時の火災のことを思い出していた。映像の向こうで続く火災にどうにか止まってくれと思う一方で、だけど出来ることもなにもないと思った。そんな唖然とする思いで海の上を炎が舐める様子を見てた。

テレビを付けてもニュースの内容は昼間とずっと変わらなかった。
TVKには昼からずっと同じアナウンサーが出てて同じ状況を繰り返し説明している。
不安な夜を迎えて、私は万一の時のために、避難用の荷づくりをして部屋の戸口に準備した。
こんなでかいの持って動けるのかというくらいの荷物の小山が出来た。
しかしそれ以来、中に入れる衣料を季節によって変えたにせよ、その避難用の荷づくりは未だに解いていない。

兄は翌日、昼食を取ると早々に病院へ向かった。
電車がまともに動いていないから病院の言う門限までに帰れるかどうか分からないからだ。
実際その日、門限までに帰れない人が一人いて騒ぎになったらしい。
だらか、なんでこんな状況で病人を放り出すのか理解できない。今週は一時帰宅は中止でいいじゃん。
なんでそれが出来ないの?病院て、入院患者の安全を優先しないの?
でも、こんな非常時の中をちゃんと一人で帰宅して、病院へいち早く戻ることのできた兄を誇らしく思ったし、
無事に病院に戻れたことに私はあらためてほっとした。

だけど、あの日ですべてが終わったんじゃない。
あの日からすべてが始まったんだ。
翌日、父親がビデオに収めそこなった町の被害状況を、あらためて私が父親について行って記録することになった。
被害状況の確認には県議や、市の職員の人たちもたくさん出て来ていて、現場の様子を記録しながら、道々他にも被害状況を確認しに来た他部署の人たちもたくさん見かけた。
一言で言って、これは想像だにしなかった。
どこもかしこも水浸し。いまだに水が止まらない。その地域一帯の元を止めてしまうわけにはいかないいからだ。
庭の植木が全部ひっくり返り、みんな家の玄関ポーチが玄関から離れてしまうか、玄関ポーチの階段が地面から宙に浮いているかしていいた。家の石垣は崩れ、橋が川に落ちている。
壊滅状態のマンションもあった。5階建てくらいのマンションの棟と棟が完全に分断されている。マンションを横から見てもはっきりと確認できるその隙間をまたいで住民が行き来する。マンションから避難するためだ。マンションの基礎は地面から1m以上も浮きあがり、裏の駐車場へは飛び降りなきゃ足は届かない。
子どもの遊ぶ公園を何百メートルにも渡って縦横に走る亀裂は、その後の余震のせいか、昨日父親が見た時より広がっていると言っていた。公園に敷き詰められたタイルはところどころ掘り返されたみたいに散らばっている。幅1m以上の歩道を飛び越えて縁石が道路に転がっている。モグラが運動会したみたいになっているグラウンドの盛り上がった亀裂は、そのまま大根川の堤を超えて平塚側の堤にさえ達している。切れて垂れ下がる住宅街の電線。水とガスの止まった地域。

そうして非日常との戦いが始まった。
うちの店がお惣菜を収めたり、仕出しを受けている弘法の里湯は復旧のため2ヶ月の休館、おおね公園も安全を確保できるまでは再開のめどが立たない。喪の意識から世間は一気に自粛ムードに流れ、そして突如として仕事が消えてなくなった。
小田急はどういうわけか本厚木-新松田間を走らず、代替え輸送はバスだが、こんな状態ではバスのダイヤはないも同然だ。ましてや輪番停電などという結構なことになれば車という移動手段でさえも絶たれるわけだ。生活に必要な手続きを行うのに役所へ行くこともできなかった。
日用品がたった2日で町から消え去り、入荷したかと思えば闇市のような値段が付くか、配給制かと思わせるような購入制限がつく。そしてなぜか首都圏だけは免れることのできる、まるで計画通りに行なわれない輪番停電に嫌という程振り回され、3月の寒空の下、私たちは日々恐々として暮らした。
11日以降、突如テレビの画面に現れる緊急地震速報に声を張り上げることが増え、それ以外にも時間を問わずやってくる余震のたびにそれぞれが部屋を飛び出して、この揺れがいつまで続くのか、どこまで大きくなるのかと、廊下で家族が顔を突き合わせる夜がしばらく続いた。

私は、完全に昼間電気のない町、夜電気のない町というものを初めて見た。この21世紀に。電力を喪失するなんてことがあるとは。
そしてその時の家の中ので、夜灯りがないということに、情報が手に入らないということに、どれだけ不安を感じるかということも身をもって知った。
そんな町の姿を実際この目で見ても、私にはいまいち本当に何が起きているのかわからなかった。
ただ、昼間電気のない街は、なんとなくひっそりと休んでいるように見えたことも確かだ。
輪番停電でスーパーがやっていない時は、家の中は真っ暗だから、寒空の下散歩して、新しく無人の野菜のスタンドを見つけてそこで買い物をしたりもした。

ひょっとしたら私はあの時、町のあるべき姿を見たのかもしれない。
こうでいたいという町の姿を見たのかもしれない。
電気の消えた町が少しほっと息抜きしているように見えたのは私だけだったろうか。

去年の3.11以降、あまりと言えばあまりにひどい山やら谷やらを個人的にくぐり抜けてきた。
私の苦労なんて、被災地を追われたり、そこでまだ踏みとどまっている人たちの努力の足元にも及ばないのは分かっているけれど、それでもあまりにも多くのことが、私の上にも、私だけをめがけて嫌ってほど落ちてきた。
よく潰されずにこれを生き抜いたと思う。どこにそんな気概があったのか、絶対これをやり抜くんだというような根性は特に持ち合わせていなかったと思うけど、とにかく今これをやりぬかなくちゃいけないんだという思いだけでやってきたような気がする。そういう瞬間最大的な踏ん張りが連続して今になっているような気がする。
まあ、だから疲労感満載なのも納得できるんだけど。
あとカブトムシ。
あの時は分からなかったけれど、あの父親の捕まえてきたカブトムシが、きっと病んでいたであろう私の心をそっと知らないうちに癒してくれていたんだと思う。世話をするのにずいぶん手間もかかったけれど、そうやってブツブツ言いながらもカブトムシの世話をすることで、きっと私の病んだ部分をあの子がこっそり持って行ってくれたんだと思う。
あの子の子孫が未来につながっていることを本当にここから願う。

私たちは今新たな復興の段階に来ていると思う。
この一年はなりふり構わず、とにかく被災者に対する救済という体裁のために質より量的な仕事で応えてきたけれども、これからは彼らの生活設計という長期的安定のために尽力しなくてはいけない。
そしてそれは被災地から離れて暮らす私たちにも同じことが言えるんじゃないかと思う。
自分たちが願うような生活をしたいなら、やらなきゃいけないことがたくさんあると思う。
そしてそれは同時にいくつもかたずけられるような性質のものじゃない。
むしろひとつが終わってまた一つ別のことに手を付けられるというような気の長い話だと思う。
私たちは何か根本的に全く新しいことを受け入れる、その生活にシフトして行かなきゃいけない時のような気がする。
残念ながら私程度の頭ではその「全く新しいこと」の具体的なことは分からないけれど。
けど、実感としてそう思う。

去年の地震はいろいろと謙虚な気持ちにさせられた。
自分が当然と思っている日常がどれだけ貴重で、幸運であるかということも。
いろんなイベントが自粛され、お客さんの予約もキャンセルされる中で、ギリギリまで悩んで結局宴会を行ったお客様もいました。地震の翌日です。
実はお店としてはキャンセルを勧めたのだけれど、話しているうちに今のうちに会える者だけでも集まって会っておこうという話しになり、それが仲間の間を伝わると、最初は3人だけだったのが、1人、2人と増え、最終的には5人全員がお集まりになりました。
全員が集まって皆の無事を喜ぶ姿を見たら(出かける時に奥さんには「気が知れない」と言われた方もいたようですが)、皆のその様子を見ていたら、私もなんだかとてもうれしくて、喪に服すだけが礼じゃない、こういうことも、いや、ひょっとしたらこういうことこそが必要なのではと感じました。

3.11にかかわらず、去年私の身に起きたことは生涯忘れがたい経験ばかりで、実は一つ一つを振り返るのも辛いくらいなんだけど。とにかくやり抜いた。生き抜いたという実感が、あの地震から一年という節目に感じる思い。

この先10年を私はまた、私たちはまた、どういう風に生き抜いて行くのかと今はそう思っている。
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